【読書日記】靖国問題の深層

こういう現状だからこそ、しっかりと靖国問題を理解したいと思い、「靖国問題の深層 (幻冬舎ルネッサンス新書)三土修平)」を読む。


著者のスタンスとしては、公人の靖国神社参拝に関しては懐疑的な意見を持っているようだが、その個人の主張は別にして、事実、史実を丁寧に追い、公平な観点での解説に努めようとしているのは評価できる。よって冷静に靖国問題について理解を深めることができた。


思うに、靖国問題というのは、終戦の日(昭和20年8月15日。国際的にはポツダム宣言に調印した9月2日か?)を境にして、それまで国民全員にとっての義務でありコンセンサスであった「天皇を頂とし、天皇のために勤労し、戦争末期には命まで捧げることを美徳とする社会システム」がガラッと変わったにも関わらず、その社会システムを維持するための装置であった靖国神社の「宗教性」および「公共性」にさしたる手を入れないまま、あいまいな形で残したことによる、一種の“けじめ”のない状態こそが問題の本質なのだというのが読後の感想。


「宗教性」とは、戦中は軍部によって利用された、天皇のために命をささげることが美徳である、そしてその戦争で散った命は靖国神社で神へと祀られるということ自体が宗教性があるということ。「公共性」とは、国の指導者が国家政策としてその神社の維持運営をするということ。戦前は日本の国家運営をするうえで、これらが一体化していたわけだが、戦後占領軍がその二つを分けようとメスを入れたのだが、どうも混乱の中であいまいなまま維持している状態(また、それを主導してるのが国家主義者だという状況が問題を難しくしている)が続いた。それが靖国問題を難しくしている要因だと著者は指摘する。


確かに「信教の自由」の原則に照らし合わせれば、靖国神社明治維新からずっと伝統的に持ち続けた、国のために散った命を英霊として祀ること自体は許されるべき。もう一方で「信教の自由」であれば他の宗派によっても戦没者に哀悼の念を示す場であるべき。またそれらが国家とは別の次元でなされればいいのだが、靖国神社はあくまでも国家によって祀られるところという主義主張がある。「信教の自由」に照らし合わせれば「民間」の靖国神社がそう主張するのは自由。だが、それは国家の関与があるべきではない・・・結局のところそれらの主張が折り合いがつかず、今まで来ているということに問題は起因しそうである。

  • 「国家が行った戦争での犠牲者を、公の立場で指導者が慰霊、哀悼の念を示すのは当然。どこの国でもやっている事」
  • 軍国主義や戦争賛美など全く思っていない。それを靖国神社参拝に絡めて想像するのはおかしい」
  • 政教分離規定に抵触するという憲法論議もあるが、あくまでも宗教ではなく社会的儀礼にすぎない」
  • A級戦犯を合祀しているのが問題というが、そもそも東京裁判は連合国の押しつけである」


というのがよくある靖国問題に関する意見だと思うが、それが本当に正当性を持つことなのかどうか、もう一歩踏み込むためにも、靖国神社の歴史、特に戦中戦後の位置づけというものを理解することは重要な気がする。今回はどちらかというと「反靖国派」の著者の書籍だったので、一方の靖国参拝肯定派の人の見解も(感情論ではなく、公平性に気をつけて書いている人に限るけど)読んでみようと思う。