■ワールドカップで改めて思う、勝つためにはリスクテイクが必要

サッカーのワールドカップ、残念ながら日本代表がPK戦の末敗れてしまった。ここのところ、深夜にもかかわらずTVで観戦し、勝った負けたとドキドキしていたのが、日本代表が本戦からいなくなることでトーンダウンしてしまう、そのことの寂しさがちょっとある。ともあれ、日本代表にはお疲れ様、素晴らしい成果でしたね、と言いたい。


このワールドカップ期間という極めて短期間で変わったのは岡田監督に対する評価だろう。強化期間の直近の試合で勝てていない、ということを背景に、辞めろ代えろの大合唱。直前の試合で不本意な結果だったから進退伺を出した、そんな根性の据わっていないやつに代表監督なんか任せられない云々。まあ、今からその辺の記事やらコメントやらを引っ張り出してきたら、もう暴言罵倒に近いものすらある。それがワールドカップで成果を上げた瞬間に、やれ岡田監督は素晴らしい戦術家だの、将来の日本協会の会長だの、挙句の果てには「感動をありがとう」。やれやれ、君たち最近までなんて言ってたっけ?


まあ、サッカーに限ったことではない。1年前に民主党政権ができたとき、世論を上げてお祭り騒ぎだった。ところが1年もたたずに辞めろ代えろの大合唱。皆さんが民主党を選んだんじゃないんですか?と当たり前のことを聞きたくなるような手の返しようである。


もちろん、暴言罵倒(に行かなくても批判レベルでも)をしている連中は、特段深い思いがあって言っているわけではない。なんとなく世論の雰囲気的に、岡ちゃん反対、鳩ちゃん反対と言っているだけにすぎず、その積み重ねが当人たちの心をへし折るような強いインパクトを与えているなんてこれっぽっちも考えていない。要は自分の中にある批判者精神(それも飲んだらすぐに忘れてしまうようなちっぽけな小市民的批判者精神)を満足させたいだけなわけだ。


別にこれ自体を悪いことだとは思わない。社会はそういうものだとして、ある種の自然現象としてとらえなければいけないのだと思う。何かをするということは賛成反対いろいろな意見がある中、エスカレートするとそれが一つの一大パワーのような状態として、意思決定者の肩にのしかかってくる。それを現実のこととしてどう受け止め、どう対処するか、その辺の覚悟・勇気というものが非常に重要なリーダーの要素になってくるのだと思う。


岡田監督は周りが何と言っていようとぶれなかった。それ以上に日本協会もぶれなかった。成果が出なかったとしても岡田監督に任せ切った。実は私はこのぶれない人選が今回ベスト8という画期的な成果を生み出した大きな要因ではないかと思っている。以前岡田監督が早稲田大学で講演をしたときの講演録を読んだことがあったが、(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0912/14/news010.html)岡田監督の講演を拝見すると、監督は当事者として、自分の信念を貫くだけ、ある種の開き直り感があったと思う。勝とうが負けようが、最終的には俺を選んだ協会のせいだ、と。一方協会には「任命責任」なるものがあり、成果が出なければなんであそこで監督を代えなかったんだ、と世論の一大パワーにこっぴどく批判される。


人間だれしも批判されるのは嫌だ。世論に迎合して、はい、じゃあ代えましょう。大臣、あなた世論にたたかれているから辞任してください、というほうが楽だ。それこそそこで失敗したら何を言われるかわからない。その前に、はい、私はこういう手を打ちましたよ。皆さんのご意見を聞いてますよ。というほうが痛みは少なくて済む。


でも想像に難くないように、成果を出すというのは失敗と紙一重であり、今回のワールドカップにおいても監督を変えずにチームが崩壊したカメルーンやフランス等を見ていると、一歩間違えれば日本代表もそういう事態になりかねなかったのだと思う。でもそういったリスクを取った上で岡田監督に一任した。後は任せたよ、と。そりゃ、勝ちたいと思えば、自分の信念を貫いたほうが可能性は高い。世論に迎合した意思決定でうまくいくかって?いったとしてもそりゃ単なるラッキーにすぎないのではないかな。


結構世の中の会社や組織においても、自分の信念を貫くよりも、周りの人たちの意見を聞くことで自分が痛くならないような手はずを整えている人たちも結構多いんじゃないかな?でもそれでは「勝つこと」は難しい。自分が痛くない予防線を張っているだけのことだ。勝ちたいなら、信念を貫こう。たとえ世論という一大パワーが敵となって襲いかかってきても、そこで信念を貫くことが成功する可能性を高めるのだ、と思った。